東京高等裁判所 昭和41年(う)110号 判決
被告人 田中和雄
〔抄 録〕
よつて判断するに、原判決挙示の証拠及び当審における事実取調の結果に徴すれば、原判示事実を認めることができる。すなわち、証拠によれば、(一)「被告人は、原判示日時ごろ、関東乗合自動車株式会社の事業用大型乗用自動車(バス)を運転して原判示成宗三丁目停留所において西田町三丁目方面に向い車掌の発車合図で発進しようとしたが、その折右斜前方約一五メートルの道路右端に背の低いコートを羽織り黒のハンドバツグを下げた中年の婦人(本件被害者の谷川トラ)が左の方(被告人のバスの方)を向いて立つているのを見たので、同女が道路を右から左に横断しようとしている者であると思つた、しかし、被告人は、同女がそのまま立止つていてくれるものと思い、かつ当時道路前方左側には二台の自動車が駐車していたがこれを避けて自車が同女の前を通過できる余裕があると考えて、ハンドルを右に切り発進と同時にバツクミラーで右後方を確認したのち、目を前方に向け直して進行した、発進して一四、五メートル(又は一五、六メートル)のところで車の右前にゴトンとシヨツクを覚え何かに乗りあげたように感じたので、右前のサイドミラーを見たところ、人の足が車の後の車体から道路にはみ出しているのが見えたので、轢いたと直感して停車し、降りてバスの後ろに行つてみると、被告人がさきほど見た女の人と思う人がそのとき立止つていたところから少し前方の道路の真中あたりに倒れていた」こと(被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、秋山正子の司法警察員に対する供述調書、司法警察員作成の実況見分調書―とくに被告人の指示説明部分―)、(二)「被害者は本件道路に頭を太田計器の社宅の方に、足は奥山タバコ店の方に、すなわちバスの進行方向に向つて大体頭が左斜前方に、足が右斜後方になるように、両足を半分曲げた恰好で、追想した場合左横向きであつたとも感じられるし仰向けであつたとも感じられるような姿勢で、停車したバスの後方少し離れたところに倒れていた」こと(矢沢猛の司法警察員に対する供述調書、同人の当審証言、被害者の姿勢に関する被告人の原審公判における供述、司法警察員作成の実況見分調書)、(三)「被害者は事故当時現場のすぐ北側にある知合の家へ立寄つたのち本件道路を反対側の太田計器の方に横断して自宅へ帰るつもりであつたと推測される」こと(谷川和男の司法警察員に対する供述調書、当審証人矢沢猛の供述)、(四)本件自動車の前部バンバーは薄く埃で汚れているが、右端から〇・二八メートルのところが〇・七五メートルにわたつて汚がとれていたこと、前部バンバーの後方、前輪内側のやや前方に垂れ下つている電気コードの最下端及び中心部は何物かに擦られたように〇・七メートルにわたりビニールテープが垂れ下り中の新鮮なコードが見えたこと、右前輪泥除けのゴム板の内側の〇・二メートルは擦過したように泥がとれていたこと、右前輪タイヤの内側も何物かに擦過したように黒く変色していて、右後輪バネ取付部の下部も何物かに擦過したように土埃がとれて黒く鉄の地が表われていたこと(司法警察員作成の実況見分調書)、(五)谷川トラの死体には右そけい部に伸展創及び挫裂創、腰部皮下に多発挫滅状の骨盤骨折が認められるほか、前額部、右耳翼部、左手腕、左右肘部、左右膝蓋部、下腿前面、左臀部及び左大腿部等に表皮剥脱ないし変色斑が見られ、死因は胸腹腔内損傷(挫滅、出血)であること(原審証人中原義行の証言、同人作成の死体検案調書)等の諸事実が認められ、これらに前掲被告人の捜査官に対する各供述調書、被告人の原審第二回公判における供述を総合すれば、被告人は本件バスを発進させる前被害者の谷川トラが右斜前方約一五メートルの道路右端に立つていて道路横断の機会を待つ態勢にあるのを認めながら、自車の通過を待つていてくれるものと軽信してその後の同女の動静に対する十分な注意をはらわず進行したため、同女が道路を右から左に横断しかけたことに全く気づかず、自車の右前部を同女にあて、倒れた同女を右側前輪で轢過した結果、同女に対し原判示のような傷害を負わせ死亡させるにいたつたものと推認するのが相当である。右認定に反する被告人の供述、とくに当審における被害者が倒れていた際の頭の方向等に関する供述は前記証拠に対比し措信することができない。被告人が原判示のように「谷川が道路を横断しようとしている者であることを知つた」こと、「同女が自動車の通過を待つていてくれるものと軽信した」こと、「右前方を注視することなく進行した」ことは一切ないとの所論の主張は被告人の捜査官に対する各供述調書中の記載をし細に検討すれば、いずれもこれを容れる余地がなく、被告人が「その車の前部で同女を押し倒した」との原判示は事実に反するとの主張についても、もとより目撃者のない本件においてこの点に関する原判示事実を直接証明する証拠はないけれども、しかし、所論のように被害者が被告人の車に轢かれる前すでにみずから横断を始めた際ビツコのためと道路が坂のため足を滑らせて転倒していたという事実を認むべき証拠もなく、むしろ、前に認定したようにバンバーに埃がとれている部分があつたこと、被害者の倒れていた地点及びその倒れていた際の頭や足の方向が前に認定したとおりであること等を総合して合理的に考えれば、原判示のように推断せざるを得ない。所論はこれと異り「被害者が頭をバスの方向にして倒れていたことは動かせぬ事実」であるとの前提に立つてその主張を推し進めているのであつて採用の限りでない。以上の次第で、原判決には何ら事実の誤認は存せず、論旨は理由がない。
控訴趣意中量刑不当の主張について
よつて記録を調査するに、本件犯行は被告人の過失により事故を起し人一人を死亡させたもので、その結果の重大性にかんがみるとき、被告人の刑責は決して軽くないのであるが、証拠によれば、右道路には当時横断歩道の設置がなく、被告人が発車寸前に見た被害者の位置、態度等からして、被害者もまた当然停留所に停車していた本件バスが間もなく発車して被害者の横断しようとしていた道路前方に進行してくるであろうことを知つていたと推測され、したがつて被告人において被害者が被告人の車の通過を待つてくれるものと考えたとして、それがすでに説明したとおり自動車の運転手として課せられている業務上の注意義務を十分に尽さなかつた過失の責は免れないにしても、あまりに厳しくその責任を追及することは酷であると認められること、このような場合被害者においても(ことに被害者の歩行能力に欠陥があつたことが認められるのであるから余計に)被告人の車の進行に十分の注意をはらつて道路を横断すべきであつたこと、被告人にはこれまでに交通事故はもとより道路交通法違反の前科もないこと、本件につき被害者の遺族との間に示談が成立し、右遺族らにおいて被告人を宥恕していること等の諸事情をしん酌すれば、被告人に対してはこの際刑の執行はこれを猶予し深く将来を戒めるにとどめるのが相当であると考えられる。
(足立 栗本 浅野)